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表現者として必要な3つの自己分析

こういうテーマは、お茶でもしながら話始めると気づけば何時間としてしまうぐらい大好物な私。

今日取り上げる内容は、「映像制作者などのクリエイターにとどまらず、いかなる表現者にも通ずる自己分析」だと思っているものです。

そして、これは映像や映画制作をする上で出会うスタッフや演者の皆さんに、よくさせて頂く質問の1つでもあります。(これをきっかけに話を広げれば、2-3時間はあっという間!)

自分自身の特性をわかろうとする姿勢を持っている人、は私にとってとても魅力的に見えます。
なぜでしょう? 多分、自分がそういう姿勢を何よりも大事にしたいと思っている人間だから、というのがあります。
でも、実際のところ、「私は私でいることにまだ慣れない」とでも言いましょうか、年齢を重ねても新たな自分の一面に驚くことも少なくありません。それは良い部分もあまり好きではない部分も含めて。

身の回りの環境の変化のなかでも、身体的・精神的・物理的(住む場所とか職場とか)・家族的な変化(結婚・出産・子育てなど)、色々あります。そういった変化に対して、好都合に変化してくれる便利な心身ではありません。
それは年齢とともに対処がうまくなるものではなく、真剣に対策(?)考えた時間に比例するもの。

この『対策』って、何?
これは人それぞれだと思いますが、私が学生時代の頃から信頼している対策方法というか突破口があり、それは、「自分自身のことを文章にして分析する時間」です。よく手書きの日記やWord資料に書きなぐったりしていました。文字にすると個人的に「視える」ようになった気がするんです。

ということで、じっくりと時間をかけて3つの自己分析=”私なりの”対策、を整理していきたいと思います。

1. 「引き出し」は何か。

「引き出し」…これは簡単に言えば、趣味。それに尽きるんですが、会話の引き出しとしてもそうだし、ピンチになった自分にお助けアイテムを出してくれるような、そんな引き出しをイメージしています。
映像や写真を撮ることも大好きなんですが、仕事≠趣味、としていつも考えるようにしています。

私の場合…旅行、温泉、映画鑑賞、音楽鑑賞、読書、カフェ巡り、自然に触れること、など。
でも意外と、日常的に好きなこと強いていえば好きなこと、の差が激しかったりします。

時間を費やして知識や経験が増えていくと「愛着」が増していきます。この愛着が増す、ってのが非常に大切だと思っています。マニアになれ!というわけではなく、それぐらい時間を費やせるのはもはや強烈な個性とも言えるし、自分なりの視点や悦びを持っている証拠だと思うんですよね。私自身、飽き性なところがあるので、無意識にしていることやずっと続いているような習慣は、どんだけ疲れていてもついついやってしまうようなカチッとピースがハマる引き出しなんだと感じています。

この「引き出し」がたくさんある人に出会うと、人間力強いなぁ…と感じさせられることがあります。
それは物知りとかというわけではなく、何か自分なりの視点で物事に対して取り組み、人の言葉を借りるのではなく、費やした時間に裏打ちされるカタチで出てくる言葉って信頼できるというか。そもそも絶対楽しそうな顔で話しているんですよね。笑

私自身の引き出しってなんだろう、を考えると列挙できるもののなかに、自然と順位や優劣(頻度)をつけている自分に気づかされます。そして、何気なく過ごしている日常のなかに隠れている法則をあぶりだせると「なぜ、この引き出しになっているのか」の理由を言葉で説明できるようになる。

これが私にとっての自己分析の1つ目です。

2. 「原体験」は何か。

だんだん就活の面接で出てきそうな言葉のチョイスになってきてやや不快ですが、これ以上の言葉が思いつかないので続けます。笑

人を撮影し物語を紡ぐことに情熱を燃やしているのですが、その火にくべ続けることができるのは原体験があるからです。私の場合、直球で3つ。この3つが強烈な軸になっています。

1. 高校2年生のときにした怪我と病気で、寝たきりに近いときもあった闘病生活から這い上がってきたこと。
2. 56カ国を渡り歩いてきたなかで触れた人の優しさ、愛情、文化や宗教・歴史の深さ。
3. JICA海外協力隊としてウガンダ共和国で過ごした2年間。

JICA海外協力隊独立行政法人国際協力機構が運営母体の途上国でのボランティア経験ができる制度。

2つ目の自己分析となる「原体験」とは、「私が私らしく居続けるために、絶対的に必要だった経験。」です。言い換えれば、その経験がなければ私でなくなってしまうぐらいの核になってるものです。

大げさな書き方してますが、原体験というものはみんな持っているものだと思います。持っているけども、言葉にしてこなかった、もしくはする機会がなかっただけだと思っています。

先日は、保育園の頃から俳優になりたい!と思いはじめ、実際に俳優になった方のお話を伺う機会がありました。幼少期に強く志す何かがきっとあったんだと思います。(にしてもすごいし、何より早すぎる。笑)

この「原体験は何か?」という問いかけに対して、自分がしてきた経験を細胞レベルで解剖していくと見えてくるものがあります。それが、本能的に持っている「指向性」です。

指向性…よく音声収録で使うマイクなどの説明でみる単語ですが、簡単に言えば、空中に出力された音や電波の伝わる強さが、方向によって異なる性質のことを言います。特定の範囲の音を狭く拾うマイク、逆に広範囲の音をまんべんなく拾うマイクなど、撮影シーンで使い分けたりします。

無意識に重要視していること、気になってしまうこと、特性や特徴という言葉では簡単に片付けたくないのですが、この範囲(分野であったり、状況であったり)から発せられる音にはとても敏感だ!というものがあり、原体験を書き起こすことは、その指向性を理解することにあると思っています。それは、強い個性やこだわりともとれるし、簡単に人が真似できないものであることがほとんどな気がします。

「指向性が強い体験」は、強いモチベーションになりますし、流行り廃りが激しく、何かとバズることが目的になっている情報発信者が多いなかで、ブレずに突き進むための羅針盤になってくれます。

3. 「原動力」は何か。

この「原動力」という言葉をどう解釈するか?ですが、迷ったときにでも行動を強く推し進めることができる源、と思っています。いろんな動機を原動力と据え置くことができると思いますが、私の根本的なエネルギーの源は「怒り」に分類される感情です。

・目標を掲げても到達できない自分
・ついついサボってしまう自分(←自分に甘いんです。)
・無駄とわかりつつ、同年代と比較して遅れを感じている自分
などなど。

怒りの裏側には悔しさに似たものがあり、何かしらの埋められない距離があります。その距離を認識して立ち向かう姿勢を持つことが、私の原動力になっています。そして、さらに言えば、その距離がどれぐらいなのかが分かれば分かるほど燃えるタイプです。笑

特に映像制作に関しては、私は29歳で始めているので非常に遅いスタートだと思っています。
それを<遅れ>ととるか、映像と出会うまでに夢中になって別のことに費やした時間もあるので、むしろ人生を賭して向き合いたいことに29歳で出会えたことを<幸運>ととるか。いろんな捉え方があっていいと思う、と今なら言えます。

加えて「原体験」と「原動力」は密接に関係しているように思いますが、言葉から連想するイメージがやや異なっています。私のなかでは、原体験はすごーい深い湖の中に眠っている大きな石ころのようなイメージ。揺るがないし、大きく変わることはありません。原動力はその石ころから沸々と湧き出ている熱いもの、というイメージ。水面まで気泡となってたどり着く、湧き続けている何か。

それなら原体験の数が多ければ多いほど、エネルギーが湧いてくるのでは?となりがちですが、どちらかというと、石の大きさの方が大切だと思っています。動機に不純さがあるといつか崩れる理由になります。時間を費やしたもの、そして、それに付随して動いた感情の総量や軌跡って裏切らないので、原体験を掘り下げることに時間をしっかりとかけられれば、原動力は自ずと見えてくるものだと考えています。

まとめ

「引き出し」・「原体験」・「原動力」を言語化して、理解する。
実はよく大学生相手にこの手の講義をさせて頂くのですが、学校の課題や発表の機会でもない限り、しっかりと向き合うことってないと思います。

でも、そこにしっかりと時間をかけた場合、コミュニケーションにどんな影響が出るかというと、会話に個性がでる。結果的にわかりやすい変化として、私の場合は、言葉選びに費やした時間が垣間見える(そのように言ってもらえる)ようになりました。

こんな自己分析をしたとて、急激に知性あふれる人間になれるわけではありません。そもそも他人軸で捉える自我なんて求めなくていい。この自己分析の何よりの報酬は、「自分自身を知って、楽になること」です。

なんといいますか…何かを表現することやゼロから創造していくことって凄まじい悦びで溢れていて、でもそれと同時にグッとこらえなくてはいけないことも同じくらいあります。

そんなときに、自分自身の取扱説明書があると少し気持ちが楽になるんですよね、私の場合。説明がつくことって、少し恐怖や不安から遠い位置にあるので、言語化できない神秘的な部分があることも受け入れつつも、日々何かを撮影し、表現する人間の一人としてこういった書き起こしは大事にしていきたいです。

簡単な言葉で説明できればクールだろうなと思いつつ、こういう内容となるとつい長くなってしまいます…。
書きすぎた。はい、いかにも川崎という文章でした。笑
次回は、豊岡演劇祭に足を運んで感じたことについて!

Faro, Portugal / 2019 夕暮れどき。「人がそれぞれの時」を刻み、それはあまりにも平凡で穏やかなものでした。

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