
自分を高めてゆく思考術。作家性ってなに?
「作家性」
クリエイティブ業を仕事にしていると、よく会話で登場する言葉の1つ。
作家性とは、「作家が作品を通じて表現する、その人独自の個性や特徴、作風のこと。」らしいんですが、
この言葉を耳にしたときに頭の中に広がる僕なりのぼやぁ~っとした定義は…
・作品の中に作家の哲学的な解釈が脈々と流れている。
・個人的な経験をもとに変遷しつつも、一貫性を持って伝え続けようとしている。
こんなところです。
作家性があれば、人と被らないだろうし、
作家性があれば、目立つだろうし、
作家性があれば…。
と、つい考えてしまいがち。
つい最近、映画づくりや自分の仕事に対してゆっくりと振り返る機会があったので、備忘録がてら「作家性を高めてゆく」ってなんぞ?という率直な疑問を掘り下げていきたいと思います。
思考に〈出口〉を与える
五感を通じて止めどなく押し寄せてくる情報の”魚群”に、本来信用しきっているはずのセンサーが戸惑うことがある。雑念というか、雑音というか、静謐さに欠いた情報は、くどく正直うざったい。
自身で主体的に選び取っているものであればまだしも、選ばされているな、と感じることもある。
不要な感情の浮き沈みを味わっているほど、人生は暇ではないと思いつつ、スクロールを繰り返す自分に自己嫌悪することもしばしば。
こういったことを自分自身の手でつぶして解消していかないと、大切なものを見失う。
だから、情報の質はなんであれ、受け取ったらどこかに排出していかなくてはいけない。
でないと、風呂場の排水口のように、澱んでいく一方なわけです。
これが私の根本的な思考整理への考え方。
思考に排出口となる〈出口〉を与える。
そもそも〈出口〉…ってなんだ?
表現方法を探る
頭の中でグルグルと言葉が旋回していくうちに、糸がほつれるようにして絡まっていく。
それを糸車のようにして巻きなおす作業は、本当に労力がいる。
労力をかけたことには、対価を求めてしまうし、やっぱりそれなりの効果が欲しい。
その効果を最大限引き出すためには、もちろん身の丈にあった出口を選ぶことと、自分自身の特性への深い理解が必要になってくる。これに関しては数です。排出方法への納得度は、数に比例する。試すしかない。
前提として、意図せず排出していくと、暴言や不躾な行動に繋がりかねない。
排出はコントロールできた方がいい。
- 文章表現
- 口頭表現
- 映像表現
これが経営者として、一人の映像作家として、身近に感じている表現方法です。
メール作成から、電話対応、企画のミーティングや演出意図を伝える言葉選びまで。
映像を通じてノンバーバルな世界観を伝えてゆく。
こういった表現を通じて、
身体のなかに蓄積していく言葉をどう消化(昇華)していくか。
そこが肝です。
どれがベストか?という話ではなく、多方面から消化を試みなければいけない、というのが最近の気づきです。
仮に上記の表現方法を使い分けるにしても、微妙に温度/粘度(脳裏?へのまとわりつき方)が変わってくる。
– 受け手にどんな相手を想定しているか。それは具体的か抽象的か。
– 言葉選びと息継ぎ(呼吸)に無理はないか。
– どれぐらいその排出に時間をかけるか。
– 排出したあとの効果に持続性はあるか。
これだけの要素を考えても、排出方法に意図的な使い分けがあった方がいいなということが言える。
作家性を磨いていく
思考の出口に余計なものが滞留しないように、排出を続けていく。
排出を続けていくうちに、出口から生まれるものが広く認知されるようになるには、解釈を表明しながら続けていかなくてはいけない。長い道のりにどうしてもなってしまう。
「この映画は○○監督らしさがグッと凝縮している」
それは時に色味であったり、独特なカメラワークやライティングであったり、テーマ選定であったり。
その作品を創り上げるに至るまでの眼差しが、作品内に溢れ出ている。
私はそういう映画が大好きだし、そういう監督になりたい。
だから、これからも続けていく。
ここまで書き切って思う。
私が好む排出は、やっぱり「言葉を介したもの」。
写真や映像を撮ることも心から愛していますが、その先にあるのは、きっと言語表現なんだとこの年になって再確認しました。
世界は等しく平等に不平等です。
生まれた瞬間から、肉体は等しく腐敗していく。
正直に言うと、あまり美しい世界とはいえない。
でも、何かが光っているから、人はそこに心を向けるし、歩みを止めない。
虫が持つ走光性にどことなく似ている。
明日からも自分らしく、寄り添った優しい表現を。
