
私は、まだ私を知らない。
2026年に入ってから、脳からミシミシと音が出そうなほど立ち止まって考えた時期がありました。時間にしては、たぶん1週間ぐらい。
本音は言葉にできる。「私は ”できるのなら” こう生きたい」と。
そういった<理想>と紋切り型に生産されていく<現実>を改めて言葉にすると、そのギャップに愕然としてしまうことはよくあるかと思います。
そのギャップを埋めるための取り組みと汗と葛藤こそ人生!
と思えたら楽なのですが、今回は本質に迫るのに非常に時間がかかりました。
途中、思考のエアポケットのようなものにはまり、抜け出せなくなりそうにもなりました。
ギャップなんか無理に埋めなくてもいいのでは?とも思いましたが、そう結論づける「根拠」がない限り、納得できませんでした。
あぁ…なんて不都合で頑固な人間なんだと思いました。
言葉や定義にこだわり、納得がいかないと譲らない。自分でも正直ややこしいと感じます。でも、そこに「ヒント」がありました。
結果的に、自分のなかで自然発生的に巣食っていた矛盾の存在に気づけたし、久しぶりの難敵を前に解までたどり着けたことが嬉しかった。霧もしっかりと晴れました。
行動したい、でも思い切りがつかない。
それは「行動したい」という思いを解剖することで、現実にできる!と今なら言えます。
1. カメラを構える「理由」を求めて
物事・人に向き合うとき、表面的に脳内処理してわかった気になることを私はひどく嫌っています。なので、しっかりと本質を理解するために目の前で起きていることを1度すべて解体することから始めます。
もちろん、根掘り葉掘り聞けることや探れることばかりではないので、想像や観察で補いながら理解を深めていくこともあります。
誰が、どこで、何をしていて、どこから来てどこに向かっていて…。
複雑に入り組んでいる毛糸を丁寧にほぐすように、構成要素を分解するイメージです。
事象や相手を深く理解しようとするのは、本来とても時間がかかるものです。
そして、サイコロの展開図のように広がったものを、別の切り口や解釈を加えながら再構築していく。
解体→再構築。解体→再構築。解体→再構築。
この繰り返しのなかで、最初には見えていなかったものが少しずつ姿を現します。
ただ、どれだけ丁寧に観察しても、相手のことを完全に理解することはできません。そこは潔く諦めた方がいい。私たちは目の前の人を完全には理解できない。
相手の言葉を聞くことはできても、その人が経験してきた時間を、同じように生き直すことはできないからです。
それなのに、ときどき理解したつもりになってしまう。
正確に言うと、解釈が固まったら理解しようとする姿勢を放棄している。
おそらく、私が嫌っているのは、理解できないことそのものではありません。理解できていないかもしれないという可能性を忘れ、このように理解したことにしてしまうことなのだと思います。
では、なぜ私は、そこまでして理解しようとするのか。
カメラを構えるとき、私は何を見ようとしているのか。
記録を残すため?
誰かに伝えるため?
作品をつくるため?
誰でも理解できそうな逃げの理由は、いくらでも挙げられるんだよ。
でも、それらは本当に、自分がカメラを構える理由の核心なのだろうか。
そんな問いが、いつしか自分の生き方そのものを蝕んでいきました。
正直少し、少しだけ苦しかったです。
でも、私が何を理想としているかに気づくことができた。
それはきっと、こんなところ。
理想:「納得のいく理解に及ぶまで、私はカメラを握りたい。」(仮)
2. 「人と寄り添う」という言葉の罠
これはすべての仕事人、特に職人気質な人に言えることだと思うのですが、こだわりを持ち始めると時間をかけたくなります。一度創ったものを壊して創り直したり、いろんな方法を試してベストを探ったり。
時間をかけることそのものに酔っているのではなく、かけた時間に比例して生まれる感触を信頼しているんです。それを知ってしまった以上、簡単に手放すことができないんです。ただ、それだけ。
でもそれって、残念ながら世の中ではあまり求められていないことなんですよね。
一方で、世の中ではスピードと質が求められます。コストパフォーマンスにタイムパフォーマンス。どちらも、いまの社会を生きるうえで無視できない価値観です。
限られた時間や予算のなかで成果を出すことは、当然求められることでもあります。
①効率よく進めることと、
②十分に理解すること。
このふたつは、必ずしも同じではありません。
ここに、自分が抱えていた矛盾の一端がありました。
私は、人と向き合うことに時間をかけたい。
相手を理解し、その人が見ている世界を想像し、何を伝えるべきかを考えたい。
ところが、その姿勢を大切にする一方で、現実のなかでは時間をかけること自体が制約になります。
考え続けるなかで、私は「人に寄り添う」という言葉そのものを疑い始めました。その言葉を口にするまでに、どれだけ相手のことを考えただろうか。自分にとって都合のよい解釈を、相手の本音だと思い込んでいないだろうか。
そう考えると、少し怖くなります。
関わりを大切に持つには「時間がかかる」ということ。
そして、時間がかかるからこそ感じる「手触りがある」ということ。
その手触りがないと生まれない「言葉がある」ということ。
この3ステップを蔑ろにして出た言葉は、虚勢や偽りでしかなく、何の意味も持たないと、少なくとも私はそう考えています。
ここでいう手触りは、単に苦労したという実感ではなく、目の前の相手や事象と、自分の解釈とのあいだを何度も往復した痕跡のようなものです。
すぐに答えを出さず、いったん立ち止まる。自分の理解を疑う。別の角度から見直す。必要であれば、いままでの解釈を壊して、つくり直す。
そうした過程を経て、ようやく自分の言葉として差し出せるものがあると感じています。現実は言うなれば、こんなところ。
現実:「自分のこだわりは、多くの場合は求められない。」(仮)
3. 名前のついたこだわり -エスノグラフィ-
そんなことを考えていたとき、「エスノグラフィ」という言葉に出会いました。恥ずかしながら、これまでこの分野について深く知っていたわけではありません。
エスノグラフィ(Ethnography)とは、ある人々やコミュニティのなかに身を置き、そこで暮らす人たちの言葉や行動、習慣、関係性などを、時間をかけて観察しながら理解していく方法です。日本語では「民族誌」と訳されます。
もともとは、人類学者がある集団の中に入り込み、
- そこで人々がどう暮らしているのか
- 何を大切にしているのか
- どんな言葉を使うのか
- 人と人がどう関係しているのか
- 外から見ると見えないルールや価値観は何か
を、実際の生活の中で観察し、記録し、記述する方法だそうです。
重要なのは、単に「人を撮影する」ことではなく、その人たちの世界を、その人たちの側から理解しようとすることです。
詳しく知れば知るほど、「あれ?」と思いました。
これまで自分が人と関わるときに、なんとなく大切にしてきたことが、すでにそこに書かれているような気がしたからです。名前がついていたんです。
すぐに結論を出さない。
その人の言葉だけで判断しない。
一緒に時間を過ごす。
生活のなかにある小さな変化を見る。
言葉になっていないものにも耳を澄ます。
そして、わからないものを「わからないまま」持ち続ける。
わからないから、話をする。
話してもわからないから、また見る。
一緒に過ごす。また話す。
そうやって少しずつ、その人の輪郭が見えてくる。
でも、完全にはわからない。
だから、また知りたくなる。
そう、そうなんだよ…。
おれは、そうやって創られてきた人間なんだよ。
震えました。
エスノグラフィを知れば知るほど、それはまさに自分がカメラを構えるときにやってきたことでした。生きる指針としていた姿勢でした。
私の「人と向き合う」というなかにある姿勢は、突然どこかから降ってきたものではなかったのだとわかって、物凄いうれしかった。
人と関わり、観察し、考え、撮り、また考える。
その繰り返しのなかで、少しずつ身体に染み込んでいったものだった。
そう考えると、これまで自分が「なぜこんなに時間をかけてしまうのだろう」と悩んでいたことも、不思議と少し違って見えてきました。
私は、時間をかけたいのではない。
時間をかけなければ、自分が納得できるところまで人や物事に近づけないのだ。
そして、それは仕事のやり方というより、もっと根っこの部分にある、自分自身の人との向き合い方なのかもしれない。
そう思えたとき、少し救われました。
「早く答えを出さなければいけない」と思っていた自分に対して、「時間をかけてもいい」と言ってもらえたような気がしたからです。
すべてに時間をかける必要はありません。でも、自分が本当に向き合いたいものに対してまで、効率だけを理由に急ぐ必要はないのだと思います。
むしろ、時間をかけてきたからこそ、自分には見えるものがある。
人の声のわずかな揺れ。
言葉と言葉のあいだにある沈黙。
何気ない仕草。
その人が語らなかったこと。
カメラを構えていると、そういうものが気になって仕方がない。そして、そういうものに耳を澄ますことが、僕にとって「人を理解する」ということなのだと思います。
人と暮らし。
言葉と声。
カメラは、目で見るためだけの道具ではなく、誰かの人生に近づき、その人の見ている世界を想像するための道具だと改めて気づかされました。
ギャップを埋める気づき:「心から必要だと感じたときに、そのこだわりを引き出しから解放すればいい。」
まとめ
自分自身に理解が及ぶ。
苦しい時間の先に産み落とされた解に対して、そう思いました。
ずっとそこにあるものなのに、触れられない。
正しく言葉にされてこなかったがゆえに、存在すら気づかない。
そういう不可解で認知できないものが姿を現したときに、動揺と興奮に近いものを感じました。
<理想>と<現実>。
バランスを持って生きていくことは、容易くありません。いつまで経っても人は葛藤しますし、葛藤の対義語は「平然を装っている葛藤」とすら思っています。
今回のことを機に再確認したことは、「私は、まだ私を知らない」ということ。無知の知、足るを知る。カメラを握るということをしていなければ、ここまで内省する人間にはならなかったかもしれません。
この気づきを得た矢先に、第2の母国ウガンダでの撮影仕事が決まり、また新たなドキュメンタリーのテーマに出くわすのでした。
つづく。




