
物語とホモサピエンス— “SNS時代”に、人はまだ物語を必要としているのか。
人間は、いつから物語を必要とするようになったのだろう。
ふと、そんなことを考えていました。
火を囲みながら、誰かが昔の話をした。
神々の話をした。
英雄の話をした。
自分たちがどこから来たのかを話した。
それは、単なる暇つぶしだったのかもしれない。
でも、おそらくそれだけではないでしょう。
人間は、起きた出来事をそのまま受け取ることが苦手な生き物なのだと思う。
昨日、雨が降った。
それだけでは終わらない。
なぜ雨が降ったのか。
雨は何をもたらしたのか。
あの雨にはどんな意味があったのか。
バラバラに起きる出来事をつなぎ合わせて、そこに意味を見つける。
そのために、人間は物語を作った。
そして数万年が経った。
私たちは、火を囲んで昔話をする代わりに、スマートフォンを眺めている。
次から次へと、誰かの人生が流れてくる。
15秒。
30秒。
1分。
物語は、かつてないほど身近になったし、かつてないほど大量になった。
では、人間はもう物語を必要としていないのだろうか。
むしろ、現状はその逆をいっています。
私たちは今まで以上に、物語の中で生きている。
しかも今度は、物語を見るだけではない。
自分自身の物語まで、毎日のように編集しているわけです。
アイキャッチ画像になっているのは、2026年5月にウガンダで撮影した野生のチンパンジーです。彼らとの出会いは、自分の生き方を見直すきっかけになりました。
情報であふれ、矢のように過ぎていく日常のなかで、夢をかかげ目標に突き進むのに、改めて立ち止まってみたいと思います。
有限の時間のなかで、自分の物語のなかで生きることは、本当にできるのかどうか。
1. 人間は、なぜ物語を必要としたのか
神話、宗教、英雄譚、歴史、家族の記憶。
人間は昔から、出来事をそのまま記憶するのではなく、「これは何だったのか」という意味を与えてきました。
「昨日、雨が降った」ではなく、「雨が降ったから、今年は豊作になった」というように、バラバラの出来事をつないで意味にする。
人間とは、元々世界を物語化する生き物なのかもしれない。
という勝手な仮説をたてます。
物語が生きていくのに必要なんだ!ではなく、元々物語化する習性があった、と考えた方がシンプルですよね。
ところがそこにSNSという怪物がやってきた。
Instagram、TikTok、YouTube、X。
私たちは一日に何百、何千もの「物語」を見る。
誰かの旅行。
誰かの結婚。
誰かの失敗。
誰かの成功。
誰かの昼食。
文字に起こすとほんとどうでもいい物に時間を割いていることに気づかされます。一つひとつの物語を深く理解しているわけではないし、元々真剣になんか見ていない。
15秒で消費される物語。
スクロールされる物語。
アルゴリズムによって選ばれる物語。
物語が溢れすぎた結果、私たちは物語そのものに飽きたのではないか?という問いが生まれてくる。
2. それでも、人は「自分の物語」を作り続ける
SNSを見ているだけではなく、私たちは、
- プロフィールを書く
- 写真を選ぶ
- 投稿する
- 削除する
- プロフィール写真を変える
- 「自分はこういう人間だ」と発信する
つまり、SNSとは、人類史上もっとも巨大な「自己物語制作装置」なのではないか。という見方もできます。
めちゃくちゃ大げさ言い方をしているように思いますが、昔は作家や映画監督だけが物語を作っていたわけで、それが今では誰もが自分自身のクリエイティブディレクターになっている。
言い方を変えれば、物語を作らされていませんか?ということです。
3. 「本当の自分」と「編集された自分」
ブランドは、「私たちは何者なのか」を定義する。
個人も同じです。
Instagramのプロフィールも、写真も、服も、言葉も、仕事も、全部「自分は何者なのか」という物語を構成する素材になる。
だからSNS時代のセルフブランディングとは、自分を売ることではなく、自分の物語を編集することと同義になりつつあります。
ただし、ここには矛盾がある。
編集すればするほど、「これは本当の自分なのか?」という問題が出てくる。
あるあるですよね。
SNS疲れという言葉は、何も誰かの情報を追うことに疲れてしまったという意味だけでなく、自分の物語を編集するのに疲れてしまった、も指しているように思います。
4. 物語は、人を幸せにするのか
ここまで我々の暮らしを翻弄する物語は、私たちを幸せにするのか?
物語には、人を救う力がある。
しかし同時に、人を縛る力もある。
「成功している人」
「幸せな家族」
「好きな仕事をしている人」
「挑戦する人」
「海外で活躍する人」
SNSには無数の「こういう人生が素晴らしい」という物語が流れてくる。
すると、自分の人生そのものではなく、他人の物語と比較して、自分の人生を評価するようになる。
これは卑下するわけではなく、避けられない事実になっています。
かといって、物語を捨てればいいのか?とはなりません。
人間は完全に物語なしでは生きられない。
理由はうまく説明できませんが、きっと無理だ。
問題は、どんな物語を生きるのか。
SNSによって物語がなくなったのではなく、物語を選ぶ主体が、自分なのかアルゴリズムなのかという問題に変わったわけです。
5. 物語に価値を与えるのは誰か
様々な肩書をもっていますが、役職としてのクリエイティブディレクターの仕事は、「かっこいいものを作ること」ではなく、本質的には、
何を伝えるのか。
なぜそれを伝えるのか。
そして、それをどんな物語として社会に置くのか。
を考える仕事だと思っています。
企業も個人も、結局は「物語」を必要としている。
ロゴも、映像も、写真も、コピーも、
それ自体には意味がありません。
それらが一つの物語を形成したときに、初めて意味を持つ。
ホモサピエンスは、物語を発明した動物だった。
そして今、物語を作る速度だけが、かつてないほど速くなった。
でも、情報が増えれば増えるほど、「何を見たか」よりも、「何を意味のあるものとして選んだか」のほうが重要になっていきます。
SNS時代に必要なのは、物語を増やすことではない。
自分がどの物語を生きるのかを、自分自身で決めることです。
まとめ
こうやって文字に起こしてみて気づくのですが、ここ1年ほど「本当の自分」と「編集された自分」のギャップに苦しんでいたのかもしれません。
「編集された自分」の人生は、一見うまくいっているようにみえます。
でも、その後ろ(前?)に立っている本当の私は笑っているのだろうか。
自問自答が続く日ももちろんあります。
考え続けた結果、「本当の自分」が求めている価値(物語の特性)が何かはがわかりました。非常にシンプルなものでした。
また、まとめて記事にしたいと思います。
剝き出しの人生、編集なきブランディングは人に伝わらないものなので、編集を否定するわけでは全くないのですが、ときに足を止めて、「本当の自分」の声を聴いてあげようよ、という啓発活動でした。
再現性のない、純度の高い情報で、心震わせていく。




